ヨーガ・スートラ1-24

[1-24] 自在神というのは、特殊の真我であって、煩悩、業、業報、業依存などによってけがされない真我である。

Ishavara is a special being that is unaffected by the obstacles of the spiritual aspirant (klesha), specific actions and consequences (karma), or recollections or desires. ||24||   

 

<解説>①自在神の性格がここで明らかにされている。自在神は、宇宙の創造主、維持者、破壊者たる絶対神ではないのである。彼はわれわれの真実の主体である真我と同種のものであるが、ただ特別の真我なのである。われわれの真我は無始以来煩悩その他の悪条件によっておかされ、けがされて来ているが、自在神という真我は無始以来いまだかつて、これらのものにけがされたことがない。われわれの真我も解脱すれば、煩悩等の悪い条件に支配されなくなるけれども、自在神とは呼ばれないのである。

 

<解説>②こういう特別な真我をなぜ考えなければならなかったのか?その発想の動機は、後に述べるように、ヨーガ行法におけるグルすなわち師匠の意義の重大さと関係しているであろう。ヨーガの実践においてグルの存在が不可欠な条件であるとすれば、グルにはまたそのグルがなければならないが、その師資(師匠と弟子)の相伝をさかのぼってゆくと、ついにはグルをもたない最原初のグルにぶつかるはずである。この最初のグルは、グルもなく、ヨーガをも行じなくて、初めから解脱していた真我でなければならない(1-26参照)。

 

<解説>③これが一つの発想動機であるが、もう一つの動機は、もしヨーガにグルがどうしても必要であるならば、グルにめぐり会う機会にめぐまれないものは、ヨーガ修行を断念しなければならないことになる。かかる場合の救済策として、いっしんに神を念想するならば、神がヴィジョンとなって現われ、行者を導くグルの役目をして下さる、という信仰が生まれる(2-44参照)。

 

<解説>④第三には、当時実際の行法として、最高の神である自在神(自在神はインド教になって現れる神で、それ以前の神々(デーヴァ)とは違って至高絶対の神とみなされていた)に祈念し、この至上神の姿を眼のあたり拝しようとする、いわゆる観神三昧の観法が行われていた、と想像されることである(1-28参照)。

 

<解説>⑤煩悩については1-5のところで述べた。業(karma)とは行為のことであるが、行為には善悪の価値が付随するところに意味がある。業報(vipaka)とは、すでに為された行為の善悪に応じて、後に行為者の環境、経験などとなって実現したもので、経文2-13に境涯(人間、天人等の境遇)、寿命(長寿、短命)、経験(苦、楽)を業報としてあげている。

 

<解説>⑥業遺存(karma-asaya=カルマアーサヤ)というのは、業すなわち善悪の行為が為された時、それの見えない影響または印象として潜在意識内に残存してゆくものをいう。この業遺存が原因となって、境涯等の業報が生ずるのである(2-12参照)。

 

<解説>⑦以上のような条件によって汚された真我は自由のない世界を輪廻してゆくのである。もっとも、数論(サーンキヤ)・ヨーガの哲学からいえば、真我は本来輪廻するはずのものではないけれども、世俗に、臣下の勝敗を主君の勝敗とみなすように、真我が輪廻するとみなされるのである。