ヨーガ・スートラ1-26

[1-26] 自在神は、太古のグルたちにとってもグルなのである。何故かといえば、自在神は時間に制限されたお方ではないから。

Ishvara is each and every one, and is even the teacher of the first ones; he is unaffected by time ||26||

 

<解説>①グルというのは師匠のことであるが、グルの意義は単に知識を授ける先生などよりはるかに重大である。前にも言ったように、ヨーガの修行はグルなくしては成功し難いといわれている。ヨーガの行法の中には、グルによって、口ずから伝えられ、手を取って教えられなければ会得できないものがあるからである。これは必ずしもヨーガに限られたことではなく、仏教においても、また中国や日本の伝統においても、と呼ばれるような実践的思想にとっては、師匠につくことが不可欠の条件となっている。単に文字による学習だけでは、道の根本を会得することができないのは、武道でも、芸道でも同じである。師資相承つまり師匠から弟子へと直接の面授(親しく教え伝える)の必要はヨーガの場合だけに限られているわけではない。

 

<解説>②ところが、ヨーガにおけるグルの役割は単に、文字を以て表しにくいところを面接口伝することだけではない。グルは弟子を導くのに、その超自然的な霊能を用いる場合があるのである。例えば、1952年に米国で死んだ偉大なヨーガ指導者ヨーガーナンダの自叙伝を見ると彼は師匠ユクテースワルの霊力によって不思議な宇宙意識の経験をしている(「ヨガ行者の一生」関書院)。またヴィヴェーカーナンダは、彼の身に恩師ラーマ・クリシュナの手が触れるやいなや意識を失い「眼が開いているのに部屋の壁やすべてのものがぐるぐる急回転して消え失せ、そして宇宙全体が、私の個性も一緒に、そこら一面の不思議な『虚無』にのみ込まれようとしている」ような不思議な経験をしている(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『その生涯と語録』)

 

<解説>③ヨーガ・スートラの中でグルという語が出ているのは、いまの1-26の経文だけであるが、しかし、当時グルの大切さは知られていたことであろう。その上、グルからグルへと相伝する伝統、禅宗でいう仏祖単伝の系譜もヨーガの各流派に存在していたことと想像される。グルの系譜を過去へ過去へとさかのぼっていき、太古のグルに達したとしても、師のないグルはあり得ないはずである。しかし、グルの伝統にも始めがなければならないとすれば、その最原初のグルは時間の制限を超えた神より外のものではあり得ない。ヨーガ・スートラは、このようにして自在神の存在を要請しているのである。

 

<解説>④しかし、ヨーガ行者にとって、自在神は人類最原初のグルとしてその存在が理論的に要請されるだけでない。時間的制限を超えた存在である自在神は、今もなおグルとしての働きを続けていられるのであるから、行者の熱烈な祈願があれば、行者を助けて三昧の成功へ導いて下さるのである。

 

<解説>⑤近代のある著者はグルの意義について次のように書いている。「グルすなわしガイドはヨーガ修行のあらゆる段階において不可欠なものである。グルだけが、真実な経験と錯覚とを見分け、そして行者の感覚が外界の知覚から回収された場合に起こりがちの事故を避けさせることができる。ヨーガの幾つかの流派では、グルは秘伝の伝授者であって、灯心と油を焔に変える火花のようなものである。ある見方からすれば、ほんとうのグルは究極のところ神自身であり、他の見方からすれば、誰もが彼自身のグルである。しかし、まれな場合をのぞいて、真智の修得に不可欠なグルというのは、人間の姿をもってグルで、太古の聖仙からめんめんとして続いてきた伝授相伝のくさりにつながっている人物でなければならない」

 

<解説>⑥グルの重要性は、後世のラヤ・ヨーガやハタ・ヨーガになるといっそう強調される。ヨーガ・スートラの作者は、グルの神秘性をそれほど重視していないように見えるが、しかし、ヨーガにグルが大切な要素であることは認めていたであろうから、自在神祈念に関する数節は、適当なグルにめぐり会えない修道者のための救いとして書かれているのかも知れない。(2-44参照)