[1-36] あるいは、憂いを離れ、白光を帯びた意識の発現が生ずるならば、心の静澄が生ずるものである。
- Or by contemplating the inner light that is free of suffering. ||36||
<解説>①この経文もインド註釈家によれば、3-4以下に説かれる綜制法(samyama=サンヤマ)の修得の結果得られる行果(修行の結果)と関係がある。行者が、蓮華の形をした心臓に意を集中することを習得する時、太陽や月の光のように明るい光がヴィジョンとして現れる。この光を見る時、人はすべての憂いを忘れる。何故にこうしたヴィジョンが現れるかといえば、心の体は元来、光明からなり、そして虚空のように無辺なものであるから、心臓に対する綜制の修習によって、心を構成する三つのグナの中のラジャス(不安を生ずるエネルギー)とタマス(暗痴を生ずるエネルギー)の働きがなくなる結果、心の本体が白光のヴィジョンとして現われるのである。
<解説>②ある註釈家の意見によると、このヴィジョンの原因は我想(asmita,ahamkara=アスミタアハンカーラ)である。我想は、それが清浄なるサットヴァ性のものとなる時、波立たない大海のように無辺で光りかがやくものであるから、それに対して精神集中を行うと、我想は無辺の光明として現われるという。光明のヴィジョンは、心霊的体験として、むしろありふれたものであるが、ヨーガではこれを客観的に実在する体験とは見ず、内面的、主観的な理由によるものとして解釈する。白光の体験は勝れた意味をもつものではあるけれども、最高の境地ではなく、心の静まってゆく過程における一段落でしかないとする点は仏教に似ている。かかる考え方は近代科学の精神に近いものだということができる。
<解説>③ちなみに、離憂(visoka=ヴィショーカ)という語は、3-49に説かれている霊能(siddhi=シッディ)の名称とされている。ついでに、心臓への凝念の仕方について説明すると、心臓は八つの花びらからなる蓮華の形をしていて、そのなかには光が満ちている。と想像する。行者はまず息を軽く吸った後、ゆっくりと息を吐きながら、いつもは下を向いている心臓の蓮華が次第に頭をもたげてくる姿を想像し、そして、その花の中に輝いていると想像される光に対して凝念するのである。そうすれば、しまいには光覚幻影が現われてくる。
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