ヨーガ・スートラ2-17

〔見るものと見られるもの〕

[2-17] 見るものと見られるものとの結びつきこそが、除去すべき苦の原因である

For identification of the true self (drashtu) with that which is mutable is the cause of suffering. ||17||

 

 

<解説>①見るもの(drastr=ドゥラストゥリー)とはもちろん真我のことである。見られるもの(drsya=ドゥリシャー)というのは次の2-18の経文が説いているように、三種のグナ(徳・エネルギー)から成り、そして五つの大(元素)、十の根(心理器官)等の形に自分を転変しているところのプラクリティ(自性、根元的自然)のことである。しかし、それらの見られるものの中で、苦の存在に直接的な関係をもつのは覚のサットヴァ(boddhi-sattva)である。

 

<解説>②覚のサットヴァというのは覚すなわち最高心理器官を構成するところの三種のグナ(エネルギー)の中で、明るく軽い性格のグナのことである。この覚のサットヴァは見るものである真我との間に無始以来の結びつきをもっている。その結びつきというのは、真我の方は覚のサットヴァにその光を投じて、サットヴァが外界からの印象に応じて作り出すさまざまな形像に認証(pratisamvid=プラティサンヴィッドゥ)を与え、それらのイメージを意識の領域へもたらす役目を演ずる。覚は元来非意識的な原理であるが、真我と結びつくことによって、意識性を帯び、心理現象の場となるのである。煩悩を始めとする百般の心理現象(dharma=ダルマ)も、またその結果である業と業報も、すべて真我と覚とのいわば腐れ縁の上にさいたあだ花である。そういう意味で、両者の結びつきこそが苦の原因であるといわれるのである。

 

<解説>③この関係をサーンキャ・ヨーガの哲学の立場からもう少し詳しく説明してみよう。真我と覚との結びつきは、元来、覚が真我に経験(bhoga=ボーガ)と解説(apavarga=アパヴァルガ)とを味わわせるために、自ら真我の臣下たる役を、買ってでたところに成立したのである。しかし、もしも真我が、自分と覚とは全然無縁の他人であることを知っていたならば、彼は覚の術策に陥るはずもなく、従って両者の結びつきは成り立たなかったはずである。だから、この結びつきは真我の側における無智を前提としてイルトモイエル。(2-24)。自らの実相を自覚しない真我は、覚のサットヴァ上に映じた自分の影を自分自身だと思い違いをする。

 

<解説>④ところで、覚はサットヴァの外に、ラジャス(rajas)とタマス(tamas)という二つのグナをも不可欠の因子としている。ラジャス(憂徳)は不安、憂苦を本質とするエネルギーであるから、このエネルギーが、サットヴァにはたらきかける時、サットヴァは苦の色彩を帯びる。従って、覚のサットヴァの上に映じた真我の影もまた苦の色彩に染められる。自覚のない真我はこの苦に彩られた影を見て、自らの苦とうけとめる。これが、苦の因ということの形而上学的理解である。これによれば苦の因は要するに、根本的な無智すなわち根本無明にあることになる(2-24参照)。根本無明とは、真我と覚との二元性を知らないことであるから、両者の二元性を知ることが解脱の門の鍵ということになる(4-19参照)。