ヨーガ・スートラ3-2

〔静慮 ヨーガ第七部門〕

[3-2] 静慮とは、凝念にひきつづいて、凝念の対象となったのと同じ場所を対象とする想念がひとすじに伸びてゆくことである。

Allowing your thoughts to flow in an uninterrupted stream results in contemplation (dhyana). ||2||

 

<解説>①静慮(dhyana=ディアーナ)は仏教で禅那(jhana)といい、現代は”meditation” という語をこれに当てている。ヨーガ的心理操作中の最も中心的な過程である。

 

<解説>②静慮についての経文の説明がまことに科学的なのに驚かされる。心理的過程として見れば静慮は凝念の延長であって、凝念との間に断絶があるはずのものではない。凝念の心理操作が持続される時、いつしか静慮の過程へ移ってゆくのである。だから、静慮のための特別な対象を、改めて択ぶ必要はないわけである。凝念の時と同一の場所を足がかり(alambana)とする想念(pratyaya)が、中断することなく、変化することなく、ひとすじに伸展してゆく(ekatanata)のが静慮なのである。凝念によって一点へ凝結された心のはたらきが、今度はのびのびと、しかし整然と、ある一つの想念を中心として進展してゆく有様が一句の中に充分に描き出されている。

 

<解説>③凝念は集中的であるが、静慮は拡大的である。凝念のねらいが、なるべく狭い範囲へ注意の焦点をきめて、その対象を明瞭に意識上にのせる能力を開発するにあるとすれば、静慮のねらいは、凝念の修習によって得た明晰な意識をすべての瞬間に持ち続けながら、択ばれた対象についての想念の流れを段々と拡げてゆくにある。凝念は思想対象となる一点をしっかりとすえつけることであり、静慮は、その一点を中心とした同心円の形に、または絶えず原点へかえる螺旋の形に、思想の領域を拡げてゆくことだと説明してもよい。だから、凝念の対象は単純であるほどよく、静慮の動きはできるだけ複雑なのがよいと言われている。

 

<解説>④例えば、一つの花を対象に択ぶとすれば、その花に凝念することによって他の一切の事物への関心をしりぞけ、その花だけが、明瞭にかつ明晰に心のうちに焼きつけられるようになる。それに成功したならば、今度は、その花に関するいろいろな想念を、前と同じ高さの明瞭度と明晰度とを以て、極限まで展開してゆく。花の色、形、匂いは勿論、その生産地、贈り主等々、想いは際限もなく拡がってゆくであろう。しかし、それは、暗く沈んだ状態(昏沈)でもなく、浮動した状態(掉挙)でもなく、静平に綿々とつづく、澄明な意識である。これが静慮であって、この流れのゆきつくところに三昧がある。

 

<解説>⑤ただし、静慮が本当に解脱智の開発に役立つためには、まず凝念の対象が、例えば聖音「オーム」のように、抽象的で宗教的なものが善いのであるが、ここでは、凝念や静慮の練習法を述べることに主眼がおかれていて、対象の問題はしばらく棚上げされていると見てよい。