ヨーガ・スートラ3-15

【3-15】 法の順位が刹那ごとに替わってゆくことは、有法の転変が替わってゆくことの証拠である。

Distinctness in transformation (anyatvam-parinama) are based on differences in the sequence ||15||

 

<解説>①この経文の原文はあいまいで、少なくとも二様の解釈が可能である。今はその中の一つの解釈に従って翻訳してみた。経文の意味を、例をあげて説明しよう。有法すなわち不変な実体を泥とすると、その法すなわち変化する現象態は粉末状の泥、塊状の泥、瓶の形の泥、破片状の泥、細片状の泥という順序で変形してゆく。この中の順位が替わること、例えば塊状の泥が陶工の作業によって瓶の形の泥に替わるのは、転変そのものにも交替があることを立証するものである、というのである。

 

<解説>②こういう解釈をとる時、この経文の究極の主旨は、転変ということの意味内容を、実体とその現象との関係ということに結びつけて明らかにするにある、ということになる。転変は、一つの実体と各々の現象態との間に、刹間ごとに成り立ってゆくものであって、たった一つの転変だけで、現象の多様な形が顕現するのではない、ということである。実体の転変は、順序を追って刻一刻と交替してゆく現象の各瞬間ごとの顕現順位に相即して行われている、というのである。これをわれわれの言葉で表現すると、実体は始源ではなくて根源である、ということになる。始源というのは事態の進展に相即して、常にその原因としてはたらいているということである。神は太古の時代に一回的に世界を創り、その後の世界は世界自身で展開してきたと考えるならば、神は世界の始源であることになる。これに反して、神は一回的に世界を創ったのではなく、世界はつねに神の創造によって維持されているのであって、神の創造なくしては瞬時も世界は存在し得ない、と考えるならば、神を世界の根源として理解したことになる。

 

<解説>③ヨーガにおいては、実体は根源的なものとして理解されているから、例えば土塊から土瓶が作られても、それは、土塊が有法となって、土瓶を転変したのではない。土塊も土瓶も、それが現象するには、それぞれに土という実体の、別々の転変を必要とする。このように、転変を考えるのが、ヨーガ哲学の立場である。

 

<解説>④以上の説明は、経文に対する一つの解釈に基づいたものであるが、もう一つの解釈の仕方がある。それは、転変に前述のような種類があるということをどうして知ることができるかといえば、前記三つの順序系列の間に差異があるからだ、という意味に解釈することである。この解釈に従うならば、この経文のいわんとするところは、系列の違ったものを混同してはならない、ということにある。法の系列と、時間的位相の系列とを混同して、法の系列の中へ、時間的位相の系列を割りこませたりしてはならない。というわけは、これら二つの系列は、実体に属する別々の転変に基づいているからである。例えば、現在経験されつつある土瓶は三種の系列的変化の合作によって顕現しているわけであるから、従ってそれは土という実体の三種の転変(現象的、時間的、様態的)の合作の結果生じたもので、ただ一種の転変だけによるものではない。このような解釈に基づいて本経文を訳すると、
「順序系統の差別は、転変の差別の認識根拠になる」。

これら二つの解釈のいずれが正しいかは、本経文と前後の経文との文脈的な関係から考えてみなければならないが、どちらの解釈も成り立ち得るように思える。