[真我独存の境地]
【3-55】 覚のサットヴァと真我との清浄さが均しくなった時、真我独存の境地は現われる。
Liberation (kaivalya) comes when parity between the physical world and the true self (purusha) is attained. ||55||
<解説>①覚のサットヴァの清浄さ(sattva-suddhi)というのは、ヨーガの三昧によって得た真智によって、覚からラジャスとタマスの性格が拭い去られた結果、煩悩の種子が消え、従って行はあっても、心のはたらきは起こらず、ただ覚と真我の二元性についての弁別智だけが想念として残る。一方の真我は本性清浄であって、ただ、経験の享受者とし擬態を帯びていたまでである。覚のサットヴァの清浄さと、真我本来の清浄さとが全く相等しい状態になると、覚の本体である心は、その保有する行をそのまま抱いて、根元自性(mula-prakriti=ムーラ・プラクリテイ)の中へ還元的に滅没してしまう。それと同時に、真我はその擬態から解放されて、本来の光明赫々たる無垢の独存者(絶対自主的存在)たる姿を取り戻す。
<解説>②ここで我々は、この経典の作者が何故に、3-16以後ながながと種々雑多な超能力を紹介してきたかを考えてみなければならない。作者はその途中で、ハッキリと、これらの霊能は三昧心にとってつまずきの因となりかねないものであることを注意している。ヨーガの目的は決して、霊力や呪力の取得にあるのではないのである。それでは、いままでに列挙せられた、いわゆる悉地なるものはヨーガにとってどんな意味があるのか?註釈家によれば、これらの悉地は、覚と真我との弁別智をも含めて、すべてが、サットヴァ浄化のためであった、ということがこの経文で明らかにされたのだという。しかし、わたしは、この解釈に多少の異論がある。なるほど、多くの悉地(超自然的能力)の中には、たしかに覚を浄化し、三昧を成就するのに役立つものもあるけれども、例えば空中を飛行するとか、身体を縮小して岩壁を通過するなどということが覚の浄化にどういう利益をもたらすというのか?わたしの考えるところでは、悉地とか自在力とかいわれるものの意味は、ヨーガにおいては、いわゆる綜制の心理操作の錬成の進歩の試金石たるにあると思われる。
<解説>③雑念散動の心境を抑えて、三昧の心境が深まり、対象をより鮮明に、より不動に直観することができるにつれて、対象支配の力が発現する。だから、対象を支配する超自然的な力は、ヨーガ修行の途中における景品であると同時に、その心地がいかに錬成されたかの証拠になる。これによって行者励まされ、自信を高めるであろう。事実、これ程の三昧力がなければ、解説の直接原因たる真智を得ることはできないのである。かような考え方はサーンキャ学派や仏教の場合にもあてはまる。サーンキャでは覚のサットヴァの現象態(法)として法・智慧・離欲・自在の四つをあげている。
(1)法はヨーガの禁戒、勧戒
(2)智慧には内外あって、内智はまさしく弁別智
(3)離欲は上下あって、ヨーガの場合と同じく
(4)自在は前に述べた八自在である。
この最後の自在によって、ひとはこの世界において無碍(何物にも碍げられない)であることはできるが、解脱は得られない。解脱の正因は内智とよばれる弁別智である。仏教において、神通や自在力が取り上げられているのは、それが経験的事実として認められていたということに基づいているのではあろうが、同時に禅定、三昧の心境のかなり高度の段階を示すものと解されていたことを示している。このことは、宗教学上で大きな意味をもっている。それは、インドの宗教は、原則的にいって、霊媒の宗教ではないということである。霊媒的宗教においては、霊媒はただ神霊が憑依する道具にすぎない。霊媒そのものの能力は問題にならないのである。ところが、インドの宗教では、教祖は覚者(ブッダ)でなければ権化(avatara)であって、神と人間との仲介者(ミディアム)たる霊媒ではない。キリスト教や回教と、仏教やヨーガとの根本相違はここにあるのである。
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