[転生についての緒問題]
【4-2】 輪廻において他の新しい生涯に生まれ変わるのは、自性の充実によって行われる。
Physical transformation engenders inner transformation of the form of existence.||2||
<解説>①4-2以下の経文はいろいろと理解しにくい点をもっている。大体において第四章は、ヨーガ・スートラの中で最も哲学的な内容に富んでいるということができる。多分、この章の思想内容が成立した時代は、仏教で大乗仏教の哲学思想が発達した頃であって、その時代の沸騰した哲学熱のなかで、ヨーガ教徒も、哲学的理論への要求を強く感じていたのであろう。第四章の経文の中には、明らかに当時の仏教哲学を批判対象として、さらには仏教哲学の影響や刺激の下に、書かれた推定されるものが少なくないのである。だから、この批判の相手である仏教思想がどれであるかをつきとめれば経文の理解は比較的楽になる。註釈家は批判、反駁のあいてである仏教思想の名をあげているが、しかし、経文にはあからさまに当の相手の名をあげているわけではないし、それに経文は極めて簡潔であるから、この関係をどこまでつけることができるかは容易に決められない。例えば、ハウエル氏は、この経文4-2,3,4,5の内容を、仏教の唯識思想の阿羅耶識(alaya-vijnana)に似た宇宙根本心(Ur-citta)に関して説いたものと見ているが、そういう解釈は果たしてどれだけの信憑性をもち得るだろうか?
<解説>②さて、4-2の経文は何を言わんとしているのだろうか?わたしは、本経の内容を輪廻、転生の際の転変に関することとして理解した。それで、このような邦訳となったのであるが、しかし、インドの註釈家の解釈は、これとは違っている。彼等は、本経文を、あるすぐれたヨーガ行者が現生(現在の生)涯に経験した転生の奇蹟を説明したものとしてうけとっている。彼等が引く例は、むかしナンディーシヴァラ(Nandisvara)というバラモンが生きたままで神(デーヴァ、天人)になったという説である。<解説>③いずれにせよ、ここで問題になっているのは、現世変身にせよ、来世転生にせよ、新しい身体を取得する際の転変はどういうものか?ということである。経文は、この転変の根本原因を自性(prakrti)の充実(apura)ということに置く。自性というのは、サーンキャ・ヨーガの理論では、質量因と動力因とを兼ねたような原因である。自性は三つのグナの力動的相互関連の上に成り立ち、自分自身が不断に転変して万般の存在を現象する。ここでは、これを、自性の充実という語で表現した。充実というのは、水が池にみちるように、流れこんでくることである。充実という語には、自性の動的、積極的原因性が含意されているのである。サーンキャ哲学の因中有果論の理論によれば、果は因の中にもともとから実在している、というわけであるが、これを因の方からいえば、結果のもつ形相も内実もすべて因の中に含まれているということになる。
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