ヨーガ・スートラ4-4

【4-4】 多くの転生において現われる心はすべて我想元質から生ずるものである。

The mutable self (chitta) is engendered solely by identification with that which is mutable.||4||

 

<解説>①この一経にもさまざまな解釈の余地がある。わたしは、この経文も輪廻転生において行われるべき転変について論じているものと理解した。つまり、輪廻によっていろいろな種類の生をうけるから、その心(チッタ、ここでは意、ナマス、すなわちものを考えたり、意志したりする心理器官)もまたさまざまとなるが、それらはすべて唯一の我想元質(asmita-matra)から生ずるのだ、というのである。輪廻する間には、猫に生まれたり、人間に生まれたり、神々の身をうけたりするから、それに応じて心のはたらきも変わるが、しかしそれらの心は唯一の我想から生ずるから、一つの魂の転生という意味をもつことになる。元質の原語マートラ(matra)は五唯(tan-matra=タンマートラ)という時のマートラと同じように、微妙な元素または原因のことである。自性(プラクリティ)は唯一絶対の根元的原因という意味の外に、個々の特殊な結果の質量因という意味をももっている。サーンキャ・ヨーガの理論では、我想(アスミター)すなわち我慢(ahamkara=アハンカーラ)から意(ナマス)が転変することになっている。意は変現(ヴィクリティ)で、その質量因は我慢なのである。

 

<解説>②しかし、インド註釈家は、この経文を、ヨーギーが同時に多くの身体を変現することに結びつけて説明する。すなわち、一人のヨーギーが一時に多くの変化身を現わす時、それぞれの身にそなわる心は、元のヨーギーのただ一つの我想から生じたものである。だから、変化身の心が別々にはたらきながら、ただ一人おヨーギーの変化身ということができる、というわけである。

さらに、ハウエル氏は新しい解釈を試みている。それは、このマートラという語から仏教の唯識(vijnapti-matra)を連想し、唯識思想における第八識の影響をここに認めて、ここのアスミター・マートラという語を「根元的心」(Ur-citta)の意味にとり、「絶対的我想」(die absolute Ichi-bin-heit)と訳している。この解釈は、興味深いものがあるけれども、ここでは多少いきすぎのように思われるし、かつは仏教唯識思想の正しい理解からも外れているようである。