【4-16】 客観的事象はどれか一つの心に依存しているのではない。もしも、客観的事象の存在がどれか一つの心に依存しているものとするならば、その心によってその存在が確認されないものは、いったいどうなるのか?
Nor does an abject depend on that which is mutable in human beings; for if it did, then what would happen to the object if it were not perceived? ||16||
<解説>①この経文も仏教の観念論を対手にしていると思われる。観念論者の言うように、もしも客観的事象が誰かの心(心体、心性)によって、つまりそれの結果として存在し得るとするならば、その特定の心によって確認(pramana)されないものはすべて存在しないことになる。すでに存在しない以上、それは他人の心によっても認識されるわけはない。そうすると、何人にもその自体を確認されない客観的事象というものは、いったいどうなるのか?それが再び心と結びつく機会はどうして起こり得ようか?また一つの客観的事象の一部だけが心と結びつき得ない時、その部分だけはないということにもなろう。
<解説>②例えば、身体の中で、つねに見ることのできない背中の部分は存在しないことになる。そういうわけで、客観的事象は心と独立に(svatantra)存在すると考えなければならない。心は真我ごとに存在し、この多数の心が、それらに共通の対象となる一つの客体と結びつく時に認識(upalabdhi)が成立するとみるのが道理にかなうのである。これがサーンキャ・ヨーガの実在論的認識論である。
ハウエル氏は、ここにいう心を個人ごとの心と見ないで、唯一絶対の宇宙心と見た(4-2参照)。仏教の影響を過大に見積もった見解だというべきであろう。
この経文は、あるテキストには欠けている。次の4-17の経文を引き出すための註の句であったものが、あやまって本文の中へ入れられたのではないかと思う。
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