ヨーガ・スートラ4-19

【4-19】 心は自分自身を照らしだすことはできない。心は見られるものであるからである。

As that which is mutable in human beings is not inherently identifiable, it is a perceptible object. ||19||

 

<解説>心は単に被見者であって、見者ではない(2-17以下参照)から、心自身が意識の統覚作用をなうことはできない。「わたしは欲している」、「わたしはかのものを好まない」などという意識は、心の状態に対する真我の認証(pratisamvid)を待って初めて可能なのである。ここで「わたし」という言葉は、真我の指標として使われているのである。しかし、真我はただ、意識性の根元であるだけであって、真我自体が欲したり、好まなかったりするわけではない。真我を意識主体と考えることこそ、根本無明に外ならないのである。

この経文も、仏教の唯識派が第八識に自証分(svasamvid)という縁起を認めるのを反駁している、と見られる。