ヨーガスートラ

2016年

4月

02日

ヨーガ・スートラ2-1(禅那章)

【行事ヨーガ】

[2-1] 苦行、読誦、自在神への祈念の三つを「行事ヨーガ」という。

Practice characterized by rigor and vigilance toward itself, without attachment to the outcome, is known as kriya yoga. ||1||

 

<解説>①行事ヨーガ(kriya-yoga)とは、日常の行事として行なうヨーガのことである。行事ヨーガは本命のヨーガではない。ヨーガ・スートラの立場すなわちラージャ・ヨーガからいえば、ヨーガの本命は、第一章で説いたように、心のはたらきの止滅という心理的な修練にある。行事ヨーガは、その心理的修練にたえられる心理的条件を作り出すためのもので、ヨーガの予備的段階に属している。

 

<解説>②苦行というタパス(tapas)は語源的には「熱」という意味である。非常に古い時代から使われた語で、もとは身体を太陽や火で熱したり、労したりして、熱を生ずることから来た語である。身体を熱することによって忘我恍惚の状態をひき起こすことを狙ったのが、苦行の流行した理由である。しかし後にはタパスは、断食その他の肉体的苦行を含む広い意味を持つようになる。

 

<解説>③ヨーガでは苦行は、人間の心にひそんでいるけがれを去るのに必要な行事とされている。しかし、ヨーガにとっては、苦行はあくまでも三昧に至るための準備にすぎないのであるから、極端な苦行に耽けるヨーギーは異端邪教の徒である。

 

<解説>④ヨーガの道を深く理解したE・ウッド氏(Ernest Wood)がタパスをbody conditioning(肉体的条件付け)と訳したのは正しい。読誦(svadhyaya=スヴァダヤーヤ)というのは聖典を声を出して読むことであるが、前にも述べたような(1-27,1-28)聖音(pranava)を反復して誦唱する(japa)のもこのうちにははいる。自在神への祈念いついては、すでに説明した(1-24,1-25,1-26参照)。この三つの行事ヨーガについては、後にもふれる機会がアル(2-32,2-43,2-44,2-45参照)。

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2016年

4月

03日

ヨーガ・スートラ2-2

[2-1] 苦行、読誦、自在神への祈念の三つを「行事ヨーガ」という。

If your practice is aligned with your goal (samadhi), the obstacles along your spiritual path (klesha) will disappear and ultimately you will reach your goal. ||2||

 

<解説>行事ヨーガ(kriya-yoga)とは、日常の行事として行なうヨーガのことである。行事ヨーガは本命のヨーガではない。ヨーガ・スートラの立場すなわちラージャ・ヨーガからいえば、ヨーガの本命は、第一章で説いたように、心のはたらきの止滅という心理的な修練にある。行事ヨーガは、その心理的修練にたえられる心理的条件を作り出すためのもので、ヨーガの予備的段階に属している。

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2016年

4月

04日

ヨーガ・スートラ2-3

【煩悩】

[2-3] 煩悩には、無明、我想、貪愛、憎悪などがある。

The obstacles along the spiritual path (klesha) are as follows: a lack of insight (avidya) ; identification with the mutable (asmita) ; the belief that happiness (raga) or unhappiness (dvesha) result from outer circumstances; deep seated anxiety (abinivesha). ||3||  

 

<解説>煩悩(klesa=クレーシャ)という語の意味については、すでに述べた(1-5註参照)。

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4月

05日

ヨーガ・スートラ2-4

【煩悩】

[2-4] 以上の五煩悩の中で、無明はその他の緒煩悩の田地である。他の緒煩悩は各個にあるは眠り、あるは弱まり、あるは中絶し、あるは栄えたりするが、無明は常にそれらの田地として存在する。

A lack of insight (avidya) is the source of most kleshas (obstacles) and can be latent, incipient, full fledged or overwhelming. ||4||

 

<解説>①無明(avidya=アヴィディアー)という煩悩の内容については次の経文が明らかにする。ここでは無明が他の四つの煩悩とは次元を異にし、それらの根因である関係を明らかにする。田地(ksetra=クセートラ)という語は生物の生育する大地を意味するが、ここでは無明が他の煩悩の根、原因、あるいは内在因(anvayin=アンバーイン)であることを示す。

 

<解説>②この経文で煩悩の四つの状態がかぞえられているが、眠っているというのはある煩悩が心の中で単に素質の状態にとどまっていること、弱まっているというのは前に述べたように行事ヨーガの実行などによって弱くなること、中絶状態というのはある煩悩がそれと反対の性質の煩悩や智によって打破されながらも再三再四同一の本質を以て現われてくること、栄える状態については説明の要がなかろう。

 

<解説>③かように他の煩悩はいろいろな状態変化をするけれども、無明だけはその根因としてそれらの煩悩に常に伴っている。だから、根因である無明を断滅しなければその他の煩悩は滅びないし、無明を断滅すればおのずから他の煩悩は滅びる。ヨーガの主知主義的傾向はここにその理由をもっているのである。

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4月

06日

ヨーガ・スートラ2-5

[2-5] 無明とは無常、不浄、苦、無我であるものに関して、常、浄、楽、我であると考える見解をいう。

A combination of the eternal and transitory, purity and impurity, joy and suffering, or the mutable and immutable in human beings are all referred to as a lack of insight (avidya). ||5||

 

<解説>①無明(avidya=アヴィディアー)という訳語は仏教用語を借りたのであるが、無知というのと変わりはない。無明の内容については各学派によって多少の違いがある。ここに現われている無明の説明は、仏教の四念処観などと相通ずるところがある。

 

<解説>②四念処観というのは、仏教の観法の一つで、身・受(感受性)・心・法(現象的緒存在)の四つについて、不浄・苦・無常・無我(非我)であることを観想することである。これによって、常・楽・我・浄の四顚倒(謁見)を破ることができる、と説かれている。ちなみに、無我(anatma=アナートマー)とは仏教の場合でも、今の場合でも、我がないということではなくて、我ではない(非我)ということである。無明は単に知がないという消極的な概念ではなくて、積極的な内容をもつ概念であることを注意する必要がある。

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4月

07日

ヨーガ・スートラ2-6

[2-6] 我想とは、見る主体である力(真我)と、見るはたらきである力(覚等)とを一体であるかの如く想いこむことである。

Confusing the immutable core with the transient shell is referred to as identification with the mutable (asmita). ||6||

 

<解説>①真我を見る主体である力(drg-sakti=ドゥリグ シャクティ)とよび、覚等の心理器官を見るはたらきである力(darsa-na-sakti=ダルシャナ シャクティ)と表現しているのは、ヨーガ的発想の特長を示している。真我も覚等もともに能力(sakti=シャクティ)なのであって、実体ではない。認識主体と認識器官などというのとは少しニュアンスが違うのである。数論・ヨーガ哲学のダイナミックな考え方がここにも現われている。

 

<解説>②註釈によっては、見るはたらきという代わりに、見られるもの、または見る道具と解釈する。後者の能力を以て内的心理器官(antah-karana=アンタカラーナ)である覚、我慢、意の三者に心(チッタ)を加えた四つの器官全体を表わすものと解することもできるが、覚(ブッディ)だけを表わしていると解する方が普通のようである。註釈の中にサーンキャ哲学の有名な哲学者パンチャシカの言葉が引用されている。

「覚よりも上に、形相、性向、智性の点でそれとは異なるところの真我があることを知らずして、覚に対して真我の見を抱くのは無知のためである」

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4月

08日

ヨーガ・スートラ2-7

[2-7] 貪愛とは、快楽にとらわれた心情である。

The presumption that happiness depends on external circumstances is referred to as desire(raga). ||7||

 

<解説>貪愛(raga=ラーガ)の愛は人を愛するという時の愛ではなくて、ものおしみをするという意味である。かつて経験した快楽の記憶に基づいて、同じ快楽またはその取得方法に対して抱く貪欲や渇望や欲求が貪愛なのである。

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4月

09日

ヨーガ・スートラ2-8

[2-8] 憎悪とは、苦にとらわれた心情である。

The notion tha pain and suffering are caused by external circumsrances is referred to as aversion (dvesha). ||8||

 

<解説>貪愛の反対の心情である。かつて経験した苦、不快の記憶に基づいて、それとそれの原因とに対して抱く反感、怒り、破壊欲などである。

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4月

10日

ヨーガ・スートラ2-9

[2-9] 生命欲は、その固有な味わいを不断に持ち続けていて、(愚かなものばかりでなく)賢明なひとたちにもこの煩悩のあることは一般に知られている。

anxiety (abhinivesha) arises spontaneously and can even dominate your entire exsitence. ||9||

 

<解説>①この経文では、生命欲(abhinivesa=アビニヴェーシャ)の内容的説明はなくて、それが、いつでも、なんぴとにも避け難い本能的衝動であることが明らかにされている。生命欲は、われわれのいう、自己保存の本能に相当する。生命欲は自己の肉体的生命に対する愛着と、その生命の消滅である死に対する恐怖から成っている。

 

<解説>②面白いことに、インドの思想家は、この生物一般の本能を輪廻転生の思想の論証の一根拠と見なしている。生まれたばかりの虫けらでさえ死を恐れ生を求める本能をもっているのは、それまでに多くの前生においてくり返して経験した死の苦痛の潜在的記憶があるからである、というのである

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4月

11日

ヨーガ・スートラ2-10

【煩悩の除去】

[2-10] これら五つの煩悩は、それらが潜在、未発の微妙な形態で存在する時には、心の逆転変によってはじめて除去することができる。

This burden (klesha) should be nipped in the bud. ||10||

 

<解説>①煩悩は如何にして除去することができるか?この大切な問題に本経文と次の経文とがささげられている。煩悩には二つの在り方がある。一つはいわば原因としての在り方で、煩悩が、前に述べた行すなわち潜在意識的な形で存在すること、これをここでは微妙な形態(suksma=スークスマ)とよんでいる。もう一つの在り方は顕在意識上に、心理的なはたらきとして現われた、いわばあらい形で存在することで、これらの除去法については次の経文が答える。

 

<解説>②心の逆転変(prati-prasava)というのは、心がこれまでとは逆の方向に転変することである。すでに述べたように(1-51註)、心は元来、真我の経験享受と解脱とを目的としていろいろな心理器官とそのはたらきを転変(展開)してきたのであるから、ヨーガの修行によって、真我が自らの実相を知るならば、心の任務は完了したことになる。そこで為すべき任務を終わった心はその転変を今までとは逆の方向へ向けかえる。つまり、今まで転変したいろいろな形の煩悩の行をだんだんに消していって、心の本源である自性の中へ没入してゆくのである(laya)。これが逆転変といわれるものなのである。微妙な形で残っている煩悩はこの逆転変によってはじめて除去され得る。そうして、解脱とか独存とかいわれる状態がくるのである。逆転変は還元、退行、還滅の意味をもっているともいえよう。

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4月

12日

ヨーガ・スートラ2-11

[2-11] すでに心のはたらきとして現われた煩悩は、静慮によって除去することができる。

Meditating (dhyana) on that which we wish to overcome eliminates such misconceptions that arise from human mutability (vritti). ||11||

 

<解説>①煩悩が快、苦、痴の性質を帯びた心のはたらきとして結果した時には、心の粗荒な転変であるから、静慮によって取り除くことができる。静慮(dhyana=ディアーナ)というのは、仏教で禅、または禅那と音訳し、静慮、正思惟等と意訳するのが普通である。ヨーロッパ人は、meditationをこれにあてる。静慮は本経の2-29,3-2で、ヨーガ行法の中の特定の段階として説明されている。行事ヨーガによって薄弱にされた煩悩のよごれは、静慮によって洗い去られることになる。

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4月

13日

ヨーガ・スートラ2-12

【業】
[2-12] 業遺存は、煩悩を根因とし、現世において、あるいは他生において感知され得る。

Obstacles (kleshas) are the breeding ground for tendencies that give rise to actions and the consequences (karma) thereof. Such obstacles are experienced as visible or invisible obstacles. ||12||

 

<解説>①業遺存(karma-asaya=カルマ アーサヤ)については、前にもふれている(1-24註)。業遺存は行(samskara=サンスカーラ)の一種である。業遺存の原因となる善悪の行為または思想はいろいろな煩悩を根因として発生するものであるから、その潜在的残存印象たる業遺存もまた煩悩を根因とするわけである。

 

<解説>②この業遺存はやがて、業報(vipaka=ヴィカーパ)を生むが、業報として結実するのに二様の場合がある。一つは、善または悪の行為が強度の熱心さを以て行われた時、その業遺存が即座に、この現世(drsta-janma)において善または悪の結果を現わすという場合である。他の一つは、行為がそれほど強烈なものでない時、次生以後の転生において業遺存が業報を現わすという場合である。仏教では三時業を区別する。順現受業、順次受業、順後受業の三種である。

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4月

14日

ヨーガ・スートラ2-13

[2-13] 煩悩という根因があるかぎり、業遺存の異熟果である境涯と寿命と経験が発現する。

The outcome of these circumstances is manifested by a person's station in life, longevity, and the extent to which they achieve happiness. ||13||

 

<解説>①煩悩が業遺存の根原因であることを、業報との関係において明らかにした経文である。善悪の業はその影響を業遺存という形で心の潜在領域のうちへ残す。この業遺存が顕在の世界に業報という結果を産むには煩悩のはたらきが加わらなければならないのである。この場合には煩悩は根因といっても、助因の役目をするにすぎない。しかし煩悩がなければ業遺存は実を結ばないで立ち枯れになってしまうのである。このことは、何故に煩悩を断ずることによって輪廻から解放されるのかの理由を明らかにしている。煩悩は、一方では業そのものの因であり、他方では業遺存が業報を結果するための因であるという二重の原因性をもつことになっている。

 

<解説>②業報の原語ヴィパーカ(vipaka)は元来、食物を火を以て料理することを意味し、熱を加える前の材料とは全く違ったものが生ずることを意味する。仏教では、異熟と訳する。行の中には、記憶、煩悩、業依存が含まれているが、記憶や煩悩などは心理現象として顕われてくるのに対して、業遺存は外部的現象として顕われて来るのである。それは、人間や神々や地獄の住人などの境涯(jati=ジャーティ)、その境涯の中で生きる寿命(ayus=アーユス)の長短、またその一生涯のうちに受ける幸福や不幸の経験(bhoga=ボーガ)の三種として客観界に現われるのである。

 

<解説>③業と業報との関係については、仏教にも難しい理論があるが、ヨーガでも詳細な検討が行われたものらしい。註釈家の言うところによれば、同じ行すなわち潜在因の中で、記憶や煩悩は無始の昔から幾度とも知れない輪廻転生の間に蓄積されたものが網状になって心をがんじがらめにしているが、業遺存は大体一生の間の業の影響しか残していない。業遺存は現生または、次の生において業報となって消費されてしまうからである。

 

<解説>④それでは、業から業報はどうして生ずるか?現生業の場合は問題はない。来生業の場合についていうと、まず一生の間に集積された業遺存には主になるものと、副になるものとがあって、人が死に臨んだ時、主なる業遺存を中心としてすべての業遺存が一丸となって顕われて死をもたらし、やがてまた結集したままで次の生の境涯と寿命と経験とを結集するのである。だから、業遺存は前の一生の業から生じ、そして次の一生の間に消尽される性質の行(eka-bhavika)といわれる。善因善果、悪因悪果という格言で表される業因果についてはなおいろいろ考えるべき問題があるが、今は省略する。

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4月

15日

ヨーガ・スートラ2-14

[2-14] これらの業報は、その原因である業が善であるか悪であるかに従って、あるいは悦びをもたらし、あるいは苦しみをもたらす。

The outcome of an action is felicitous or infelicitous depending on whether the foundation is successful or unsuccessful. ||14||

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4月

15日

ヨーガ・スートラ2-15

[一切皆苦]

[2-15] 明哲の士にとっては、一切は苦である。何故かといえば、現象の転変と現実の悩みと、それに行、これらのすべてが苦であるからであり、かつ、かの三つのグナのはたらきが互いに相反するからである。

Suffering is caused by change in the outside world, as well as impressions, desires (samsakra), misconceptions (vritti) and conflict. Suffering is omnipresent for those who have the capacity to differentiate. ||15||

 

<解説>①常人にとっては、この現存在のうちに苦もあれば、楽もあるけれども、真我と自性の二元性をはじめ現象世界の成立のからくりの実体を知りつくした明哲の士(vivekin=ヴィヴェーキン)にとっては、すべてが苦に外ならない。仏教も四聖諦(四つの神聖な真理)の第一に苦聖諦を上げている。存在の一切が苦であることをほねみに徹して知った人だけが求道の士となり得る。

 

<解説>②三つのグナのはたらきが互いに相反の関係にあることについては本経2-18の註の中で説明する。ついでながら、インドで苦という語の原語は、車輪のこしき(轂)の孔がうまくあけてないという意味から来た言語で、不安という気持を示している。

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4月

16日

ヨーガ・スートラ2-16

[除去すべきもの]

[2-16] ヨーガ行者がヨーガの修行によって除去すべきものといえば、それは未来の苦である。

But future suffering can be avoided. ||16||

<解説>過去の苦と現在の苦は取り除くべきものの中に入らない。過去の苦はすでになくなったもの、現在の苦は次の瞬間にはなくなるからである。だから、未だ現われていない未来の苦だけが除去すべきものということになる。

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4月

17日

ヨーガ・スートラ2-17

〔見るものと見られるもの〕

[2-17] 見るものと見られるものとの結びつきこそが、除去すべき苦の原因である

For identification of the true self (drashtu) with that which is mutable is the cause of suffering. ||17||

 

 

<解説>①見るもの(drastr=ドゥラストゥリー)とはもちろん真我のことである。見られるもの(drsya=ドゥリシャー)というのは次の2-18の経文が説いているように、三種のグナ(徳・エネルギー)から成り、そして五つの大(元素)、十の根(心理器官)等の形に自分を転変しているところのプラクリティ(自性、根元的自然)のことである。しかし、それらの見られるものの中で、苦の存在に直接的な関係をもつのは覚のサットヴァ(boddhi-sattva)である。

 

<解説>②覚のサットヴァというのは覚すなわち最高心理器官を構成するところの三種のグナ(エネルギー)の中で、明るく軽い性格のグナのことである。この覚のサットヴァは見るものである真我との間に無始以来の結びつきをもっている。その結びつきというのは、真我の方は覚のサットヴァにその光を投じて、サットヴァが外界からの印象に応じて作り出すさまざまな形像に認証(pratisamvid=プラティサンヴィッドゥ)を与え、それらのイメージを意識の領域へもたらす役目を演ずる。覚は元来非意識的な原理であるが、真我と結びつくことによって、意識性を帯び、心理現象の場となるのである。煩悩を始めとする百般の心理現象(dharma=ダルマ)も、またその結果である業と業報も、すべて真我と覚とのいわば腐れ縁の上にさいたあだ花である。そういう意味で、両者の結びつきこそが苦の原因であるといわれるのである。

 

<解説>③この関係をサーンキャ・ヨーガの哲学の立場からもう少し詳しく説明してみよう。真我と覚との結びつきは、元来、覚が真我に経験(bhoga=ボーガ)と解説(apavarga=アパヴァルガ)とを味わわせるために、自ら真我の臣下たる役を、買ってでたところに成立したのである。しかし、もしも真我が、自分と覚とは全然無縁の他人であることを知っていたならば、彼は覚の術策に陥るはずもなく、従って両者の結びつきは成り立たなかったはずである。だから、この結びつきは真我の側における無智を前提としてイルトモイエル。(2-24)。自らの実相を自覚しない真我は、覚のサットヴァ上に映じた自分の影を自分自身だと思い違いをする。

 

<解説>④ところで、覚はサットヴァの外に、ラジャス(rajas)とタマス(tamas)という二つのグナをも不可欠の因子としている。ラジャス(憂徳)は不安、憂苦を本質とするエネルギーであるから、このエネルギーが、サットヴァにはたらきかける時、サットヴァは苦の色彩を帯びる。従って、覚のサットヴァの上に映じた真我の影もまた苦の色彩に染められる。自覚のない真我はこの苦に彩られた影を見て、自らの苦とうけとめる。これが、苦の因ということの形而上学的理解である。これによれば苦の因は要するに、根本的な無智すなわち根本無明にあることになる(2-24参照)。根本無明とは、真我と覚との二元性を知らないことであるから、両者の二元性を知ることが解脱の門の鍵ということになる(4-19参照)。

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4月

18日

ヨーガ・スートラ2-18

[2-18] 見られるものとは照明、行動、停止の性格をあわせそなえ、物質元素と知覚、運動の器官とから成り真我の経験と解脱とをその目的とするものをいう。

Objects and situations in the physical world can be characterized by purity (sattva), unrest (rajas), or inertia (tamas); the are physical or etheric and result in short term pleasure or long term redemption ||18||

 

<解説>この定義はサーンキャとヨーガに共通した形而上学を背景としている。照明(prakasa)、行動(kriya)、停止(sthiti)は例の三つのグナ(徳)のそれぞれの性格を示している。つまり、照明はサットヴァ、行動はラジャス、停止はタマスの性質を表わしている。根元的自然ともいうべきプラクリティ(自性)はこの三つのグナをその構成因子としているから、従ってプラクリティから展開した覚以下五つの物質的元素(bhuta  大)に至るまでの存在は、すべて三つのグナから成り、従って三つの方向の性格をもっているのである。三つのグナは瞬時も休止しないエネルギー的因子であって、その性格は互いに矛盾する関係にあり、互いにその主導権を争うような形で三つ巴にからみ合っている。この三者の働き合いの上に、プラクリティの転変は顕現してゆくのである。三つのグナの性格をサーンキャ哲学の論書(カーリカー)によって列挙すると、

1)サットヴァ***快がその本質、照明がその作用、軽いことと明るいことがその特徴。

2)ラジャス***不快がその本質、活動がその作用、誇負と不安がその特徴。

3)タマス***痴鈍がその本質、停止がその作用、重いことと覆いかくすことがその特徴。

このように、三つのグナの性格は互いに違っていて、部分的には相矛盾してさえいるが、三者がいつも離れずに、いろいろな関係において結び合ってゆくところに、万般の物理的、心理的事象の転現が成り立っている。その相互関連の仕方には交互制圧、相互依存、相互形成、二徳ずつの対偶、相互刺激などがある。

 

<解説>②物質元素とは、地、水、火、風、空の五つの粗元素(五大)のことであり、知覚と運動の器官といえば、眼、耳、鼻、舌、皮(触覚)、語(発語)、手、足、排泄、生殖の十器官(十根)のことである。かようにここでは、いわゆる五大と十根だけしかあげられていないが、註釈家はこの外に五つの唯(tan-matra 五大の素となる微細な元素)、意、我慢、覚等も当然含まれているものと考えている。その中でも覚が最も大切な役目をすることは前に述べたところである。しかし、経文にはただ五大と十根だけがあげられているのであるから、註釈家の意見が正当かどうかは考慮の余地がある。

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4月

19日

ヨーガ・スートラ2-19

[2-19] グナの転変形態には四つの段階がある。差別あるもの、差別なきもの、還没するだけのもの、還没しないものの四つである。

Physical objects exhibit the following states: determinable; unspecific; symbolic; beyond symbols ||19||

 

<解説>①三つのグナ相互間のダイナミックな交渉の上に現実存在の転変(展開)が成り立っていることはすでに述べたが、それによって転変した現存在は四つの段階に分けられる。この四つの段階の名称の意味は後にゆずって、名称の示すものを列挙する。

1)差別あるもの***五大、十根、意

2)差別なきもの***五唯、我慢

3)還没するだけのもの***覚

4)還没しないもの***根本自性

 

<解説>②ところで、差別あるもの(visesa)というのは、いろいろな特質上の差別があるということで、五大と十根には快、不快、美、醜の差別があることを指していっている。これに反して五唯は神々や入定者にしか知られない微妙な原素であるから、五唯から成る対象には快、不快、美、醜などの特殊性を認めることができない。だから、これらは無差別という名称の下に分類される。

 

<解説>③還没するとは、自分の根元である根本自性の中へ何時かは還元、没入することをいう。あるいは、個人の人格を作る基礎と、解することもできる。覚は個人個人の人格の基礎となるが、自性には個人格の区別はない。ボージャ註は意と覚をも差別なきものの中に入れる。

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4月

20日

ヨーガ・スートラ2-20

[2-20] 見るものは、純一な見る力そのものである。それは清純であるが、しかし、覚が提供する表象を介して見ている。

Only the true self (drashtu) sees; it is immutable, although seeing is based on accurate perception. ||20||

 

<解説>純一な見る力(drsi-matra)というのは、純粋観照の力であって、なんらの限定もうけつけないものということである。清純とは、真我が転変とか現象とかいうことに無関係であることを意味する。この不変、独歩の真我がその相手である見られるものをどうして見るかといえば、覚がその対象に応じて自らを転変してつくった表象(pratyaya=プラチャーヤ)を介して見るのである。真我は認識過程において、表象に照明を与えて意識的事実たらしめるものである(4-18以下参照)。

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4月

21日

ヨーガ・スートラ2-21

[2-21] 見られるものは、見るものの目的をもって、その本質としている。

Physical objects can only be deemed to such if perceived by the true self (atma) ||21||

 

<解説>見るものの目的とは、真我が現実を経験し、そしてそれから離脱することである。サーンキャ哲学によれば、根本自性が覚以下の形に展開するには、真我の目的(purusa-artha=プルシャ アルタ)がその動力としてはたらいている。つまり覚以下の見られるものは、自己目的的な存在ではなくて、真我のためという他人本位の存在にすぎない、というのである。

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4月

22日

ヨーガ・スートラ2-22

[2-22] すでに目的を遂げた真我に対しては、見られるものは消滅する。が、しかし、それは他の真我との共有財でもあるから、なくなりはしないのである。

Once an object has fulfilled its purpose, it does not disappear but instead remains in existence as such for others; for the object is valid for all. ||22||

 

<解説>サーンキャ・ヨーガの哲学によれば、根本自性は唯一であるが、真我は生物の数だけある。だから、見られるものは、解脱した真我に対してだけは見られるものたる本質を失うが、しかし、他の未だ解脱しない真我がある以上、それらの真我に対しては、依然として見られるものたる本質を保持しているのである。

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4月

23日

ヨーガ・スートラ2-23

[2-23] 見るもの見られるものとの結びつきは、主君たる力と、臣下たる力の両者が、各自の実体を把握するための根拠になる。

The sole purpose of linking the mutable with the extant is to recognize the true enduring form. ||23||

 

<解説>見るものと見られるものとの結合は苦の原因である(2-17)が、それは同時に、主君と臣下の関係に立つ両者が各自の実体を把握するための根拠にもなる。臣下である力の自体認識は経験とよばれるものであり、主君たる力の自体認識は解脱とよばれるものである。

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4月

24日

ヨーガ・スートラ2-24

[2-24] この結びつきの原因となるのは無明である。

The root cause of identification with the mutable is a lack of insight (avidya). ||24||

 

<解説>無明は煩悩の一つである(2-3,2-4,2-5参照)。しかし、ここでは特に、見るものと見られるものとの二元性を知らずして両者を混同する無知が、無始の昔から幾生にもわたって潜在意識内に薫習されて、いわゆる行となっているものをさしている。薫習というのは、仏教用語であって、焚きしめた香りが衣服に残るように潜在意識内に残る潜在印象のことで、行の一種である。

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4月

25日

ヨーガ・スートラ2-25

〔除去ー解脱〕

[2-25] 従って、無明がなくなった時には、見るものと見られるものとの結びつきもまたなくなる。これが除去というものであり、見るものの独存位である。

When a lack of insight (avidya) disappears, this identification likewise disappears. Once this identification has completely disappeared, liberation (kaivalya) of the true self (drashtu) has occurred. ||25||

 

<解説>除去(hana=ハーナ)は、さきに説かれた除去すべきもの(heya=ヘーヤ)と関連する語である(2-16,2-17参照)。すなわち、苦である現存在がすべてなくなること及びなくなった状態が、除去と名づけられている。除去はとりもなおさず真我の独存位(kaivalya=カイヴァリャ)である。独存位というのは、真我が他の何者にも結びつくことなく、自分だけで存在する状態のことである。サーンキャ・ヨーガの哲学では真我独存の状態が解脱の内容をなしている。真我は本来、自由、清浄、不変、遍在の絶対者であるから、見られるものとの結びつきさえなくなれば、自己本来の状態にかえる。その時、真我だけではなく、その真我に結びついていた覚等もまた御役御免となって転変から解放されるから、ここにも解脱がある。サーンキャ・ヨーガでは解脱は真我と自性の両者についていわれるのである。

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2016年

4月

26日

ヨーガ・スートラ2-26

〔弁別智〕
[2-26
] 除去のための手段は、ゆるがない弁別智である。

The capacity to make distinctions (viveka) and uninterrupted insight are the path to this goal. ||26||

 

<解説>弁別智(viveka-khyati=ヴィヴェーカ・キアーティ)というのは、真我と覚とを混同せず、明瞭に両者の区別を識別する知見が、起伏常ない状態である間は、無明は完全に拭い去ることができないから、それを揺るがないものに仕上げなければならないのである。

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2016年

4月

27日

ヨーガ・スートラ2-27

[2-27] 弁別智を得た人には、最高の段階にある七とおりの真智が生ずる。

This path to insight has seven steps. ||27||

 

<解説>①最高の段階(pranta-bhumi=プラーンタ・ブーミ)という語を最高の段階に向かって階層をなしているもの、という意味に解する人もある。その七とおりの真智というのは、

1)私は除去すべきものをことごとく知った。もはや知るべきものはない。

2)除去すべきものの原因は滅ぼされた。もはや滅ぼすべきものはない。

3)止滅三昧によって、除去は直観された。

4)弁別智から成る、除去の手段は実現した。

5)覚はその任務をはたし終わった。

6)諸徳は山頂から落下する石のように、ひとりでに、途中で止まらずに、還滅に向かって動き、覚とともに自性の中へ没入してゆく。それらは一旦還滅したならば、二度と生起するようなことはない。今はもうそれらが生起する動機がなくなってしまったから。

7)この状況において、真我は徳との結合を超脱し、自体だけで輝く、汚れのない、独一絶対な存在となる。

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2016年

4月

29日

ヨーガ・スートラ2-28

〔ヨーガの八部門〕
[2-28
] ヨーガの緒部門を修行してゆくにつれて、次第に心のけがれが消えてゆき、それに応じて英智の光が輝きを増し、終には弁別智が現われる。
Through practice of these limbs of yoga, impurity is overcome and wisdom and an enduring capacity to make disinctions are achieved. ||28||   
Through practice of these limbs of yoga, impurity is overcome and wisdom and an enduring capacity to make disinctions are achieved. ||28||

 

<解説>この経文から3-55に至るまでの経文は一つのまとまった全体をなしている。しかも、この部分は、ヨーガ・スートラ全巻の中で最も包括的な思想体系を示している。ハウエル氏はこの部分を「ヨーガ部門テキスト」(yoga-anga Text)と名付けて、ヨーガ・スートラの中で、いちばん早く成立した部分だと考えた。ハウエル氏の意見にそれほど確かな根拠があるとはいえないが、ヨーガ・スートラの思想を知るには、この部分を中心と見なし、その他の部分を補足的な添加と見なすことが、便利だということはできる。

心のけがれとは、いうまでもなく、煩悩(2-3以下参照)のことである。

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2016年

4月

30日

ヨーガ・スートラ2-29

[2-29] ヨーガは次の八部門から成る。1)禁戒2)勧戒3)座法4)調気5)制感6)凝念7)静慮8)三昧 The limbs of the eight-fold path are as follows: respect for others (yama) and yourself (niyama); harmony with your body (asana), your energy (pranayama), your thoughts (dharana), and your emotions (pratyahara); contemplation (dhyana); ecstasy (samadhi). ||29||

 

<解説>ヨーガ学派の中には、六部門説、三部門説などもあったのであるが、ヨーガ・スートラは八部門説の立場をとるのである。

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2016年

5月

01日

ヨーガ・スートラ2-30

〔禁戒と勧戒〕

[2-30] 禁戒には、非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪の五つがある。

Respect for others (yama) is based on non-violence (ahimsa); truthfulness (sataya); not stealing (aasteya); non-convetousness (aparigraha); and acting with an awareness of higher ideals (brahma-charya). ||30||

 

<解説>①禁戒(yama=ヤマ)というのは、仏教の五戒と大体において同じ内容のもので、自分以外のものとの関係を規定した道徳的な心得(戒)である。しかし、仏教にしても、ヨーガにしても、単に社会道徳として五戒をとり上げているのではない。戒は心の平和を得るための手段であって、禅定のための予備コースとして提出されているのである。解脱を究極目的とする修行者はまず戒を守ることから始めなければならない。破戒の徒が悟りを開く見込みはない。仏教でも、「戒に非ざれば定を発せず、定に非ざれば慧を生ぜず」と説かれる。

 

<解説>②五戒の第一は非暴力(ahimsa=アヒンサー)である。非暴力とは、いかなる場合にも、いかなる生きものにも、いかなる仕方ででも、害を加えないことである。ヨーガ学派の中には、六部門説、三部門説などもあったのであるが、ヨーガ・スートラは八部門説の立場をとるのである。暴力の最も甚だしいものは殺害であるから、不殺生戒と訳されることもある。これは五戒の中の首位におかれるものであって、インド人が最も重んずる道義である。ガンディーの政治運動がこの精神を以て貫かれていたことは、人の知るところである。

 

<解説>③正直(satya=サティア)はガンディーのサティア・グラハという言葉に見られる。この言葉は正直を守り通すことを現している。正直を守り通すことは、非暴力の戒を守るのと同じくらいむずかしいことである。だから、ガンディーはサティア・グラハを「精神力」(power of soul)という語で説明している。

 

<解説>④不盗(asteya=アステーヤ)は読んで字の如くである。

 

<解説>⑤禁欲(brahmacarya=ブラハマチャリア)はシナで梵行とか不淫とか訳されているように、異性との交わりをしないことである。

 

<解説>⑥不貪(aparigraha=アパリグラハ)とは最小限度の必需品以外は持たないことである。インドの行者(sadhaka=サーダカ)は、一杖一鉢しかもたない。しかし、何をもつかが問題ではなく、所有欲を征服することが主眼なのである。たとえ、莫大な財産があっても、それを所有する意識がなく、それを取得し、護り、失うまいとする煩わしさに心をみだすことがなければ、不貪の戒は成り立つといえる。しかしそれは一般に至難なことである。

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2016年

5月

02日

ヨーガ・スートラ2-31

[2-31] これらの禁戒が、身分、地域、時期、習俗などの制限なく、またどんな心の状態においても守られる時には、大誓戒とよばれる。

Showing respect for others without regard for social station, or for place, time, or circumstance in all spheres of this respect is a great virtue, ||31||

 

<解説>一般社会においても、これらの戒は条件づきで行われている。たとえば、第一の非暴力すなわち不殺生戒についていうと、インドの習俗で、漁夫は魚だけを殺して、他のものは殺せない(身分上の制限)とか、一般に月の第十四日と聖日には殺生しない(時期の制限)とか言ったように、条件づきで不殺生戒が守られる。かような、条件づきでない誓戒が大誓戒(mahavrata=マハーヴラタ)といわれる。

 

<解説>②誓戒(vrata=ヴラタ)というのは宗教的な義務のことである。大(maha=マハー)という語には普遍的という意味がある。五戒は普遍的、無制約的に順奉せられた時に、単なる世俗の道徳ではなくて、解説の原因の一分として宗教的意味をもってくるのである。このことは仏教の四無量心の無量とか、六波羅蜜の波羅蜜(無極)とかいう語の意味する無制約性についてもいえるのである。どんな心の状態においても(sarvabhauma=サールヴァーウマ)という語は、「どんなものを相手にしても」の意味に解する註釈家もいる。

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2016年

5月

03日

ヨーガ・スートラ2-32

[2-32] 勧戒には、清浄、知足、苦行、読誦、自在神への祈念の五つがある。

Cleanliness (shaucha), contentment (santosha), self-discipline (tapas), learning from yourself (svadhyaya) and accepting your fate (iishvara-pranidhana) automatically translate into the practice of respect (niyama). ||32||

 

<解説>①勧戒(niyama=ニヤマ)は社会的意味を持たない。単に個人的な戒すなわち心得である。すべて戒なるものが対他的な倫理ではなく、対自的な宗教的訓育原理であることは、勧戒の内容を見ればさらに明らかになる。

<解説>②清浄(sauca=シャーウチア)ということは、肉体と心の両方を清潔に保つことである。ヨーガ行者は肉体の清浄を重んずる。毎日三たび水に入って身体を清めるのもこのためである。後のハタ・ヨーガの中には、肉体の各部分を清潔にするための極端な操作、たとえば布きれを飲みこんで消化器を洗たくするなどというのがある。心の浄化ということになれば、ヨーガ行法全体がそのためのものだということもできるが、特に慈、悲等の方法(1-33以下参照)によって心を洗うことをさしている。

 

<解説>③知足(samtosa=サントーシャ)とは、生命をつなぐに足るだけのものがあれば満足して、それ以上をあえて求めないことである。これは宗教上の心得として、あらゆる宗教でとりあげられている。残りの三つについてはすでに解説した(1-23~28、2-1~2)

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2016年

5月

04日

ヨーガ・スートラ2-33

[2-33] もしも、戒に背こうとする妄想が起こって、戒の実行の妨害となるようならば、その妄想に対抗する思念をなすがよい。

Uncertainty concerning implementation can be overcome via orientation with the reverse. ||33||   

 

<解説>この経文は次の経文とともに、前の十戒を守ってゆこうとする時に起こる困難を打開する方法を教えている。恐らく、ヨーガの先覚者たちの実際の経験からきた教訓であろう。註釈者によると、妄想とは、例えば、「あいつは不都合な奴だから殺してしまおう」とか、「だましてやろう」とか、「あいつの財宝を横領しよう」とかいった考えをもつことである。これに対抗する思念(pratipaksa-bhavana)については次の経文で説明されているのであるが、註釈家は次の如く親切に解説している。もしヨーガ行者が道をあやまった妄想、例えば暴行への衝動などによって戒行を妨げられるならば、次のような対抗思念を、いだきつづけるがよい。

「わたしは、恐ろしい輪廻の炭火にかけて煮られつつあるのだ。わたしはすべての生きものに恐れを与えまいと心がける戒行に、輪廻の苦しみからの避難所を求めているのである。それだのに、いったん捨てた妄想をとり上げて、暴力をふるおうとするのは、反吐をなめる犬の所業にひとしい」と、こんなふうに反省するのである。
妄想の原語ヴィタルカ(vitarka)は、さきに尋と訳した(1-17)ように,必ずしも妄想ではないが、ここでは、特に戒行に批判的で、殺生、虚偽などを肯定するための思慮分別のことと見るべきであろう。

経文は次のように解することもできる。「十戒に反する妄想を抑えるには、それに対抗する思念を用いる」

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2016年

5月

05日

ヨーガ・スートラ2-34

[2-34] 殺生等の妄想には、すでに為したもの、為さしめられたもの、甘んじて承認したものなどの別があり、また貪と瞋と痴の各々を動機とする別があり、さらに、温和なもの、中位のもの、過激なものなどの別があるが、すべて、苦と無知とを際限なくもたらすものである、というのが、妄想に対抗する想念なのである。

Violent thoughts (himsa) induce unending suffering and ignorance. In such cases, it makes no difference wheher you're the perpetrator, the person who gives the orders, or the instigator; or whether the thoughts are provoked by greed, anger, or delusion; or whether small, medium or large scale action is involved. This is why orienting yourself toward the reverse is helpful. ||34||

 

<解説>案ずるに、ヨーガは動機論の立場に立つ。業、輪廻をもたらす力は、肉体を以てする動作にあるのではなくて、その行為を決意するに至る思量分別にある。そこで、この経文では、妄想の内容を詳しく分析したのである。註釈家の表現に従えば、ここでは妄想を分類して3×3×3合計27種に分類しているが、詳しくいえば温和等のうちにも三段の別が立て得られるから27×3計81種があり、さらに確信ある妄想、あやふやな妄想などの区別を立てると、殺生の妄想だけでも無数の区分ができる、という。このように数限りない種類の妄想を、その起きるたびごとに反対の思念を以て抑えてゆき、妄想の打破に成功したならば、次に述べるような霊力があらわれる。

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2016年

5月

06日

ヨーガ・スートラ2-35

〔戒行実践の成果〕

[2-35] 非暴力の戒行に徹したならば、その人のそばでは、すべてのものが敵意を捨てる。

Once a condition of durable non-violence (ahimsa) has been established, all enmity will be abandoned in yourenvirons. ||35||   

 

<解説>非暴力の戒行に徹する(ahimsa-pratistha)という語の原語は、「非暴力の基礎の上では」とか「非暴力の基礎の上に立つ時には」と訳することもデキル。ハウエル氏はこの基盤(pratistha)という語を「神秘的な根本力」(mystische Grund-kraft)と訳し、これを超心理的(metapsychisch)、超物理的(metaphysikalisch)な実在と見なす。それは心の深層にいつも存立するもので、あらゆる経験的現象と生命活動はそれから生まれる。だから、例えば生命尊重の念は心の底に基盤をもっている。それは言わば、生きものに生まれながらにしてそなわっている秩序維持の力といってよい。戒に徹することは、このわれわれの実存の深みから出る創造的な衝動に徹底的に身をゆだねることである。それによって、非暴力の神秘的基盤が心の奥底に実現される(bhavana)から、行者が生命に対する畏敬の念をいかなる場合でも失わないだけでなく、彼が居るというだけで、いかなる敵意も障害欲も消えてしまうような雰囲気がそこにできあがるのである。このようにハウエル氏は解釈している。たしかにインド的考え方に触れたものがある。

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2016年

5月

07日

ヨーガ・スートラ2-36

[2-36] 正直の戒行に徹するならば、その人は行為とその結果との依りどころとなることができる。

Once a state of truth (satya) has been permanently established, each statement will form the basis for a truthful result. ||36||

 

<解説>この経文の表現をやさしくすれば、正直の戒の実行に徹したならば、その人の言う通りに行為も結果もなる、ということである。例えば、ある人に「君は立派な人間になれ」といえば、その人は立派な人間になるし、「君は天国に生まれよ」と命ずれば、その男は天国に生まれる、というふうにである。あるいは本文の「行為と結果」(kriya-phala)を行為の結果と解し、依りどころ(asraya)を寄りくるところとか、容れものとかの意味に解してもよい。そうすると、経文の意味は、ただ言うだけで、何もしなくても、行為をしたと同じ結果がやってくる、という意味になる。正直の徳はインドで太古から尊ばれてきた。「バラモンの正直」ということは古代のギリシア人の間でさえ語り草となっていた。ウパニシャッドでも正直の徳を高く評価しているが、サティア(satya)をサット(sat、実在)という語源から説明し、正直は実在と合致するから実在の力をそなえていると考えた。こういう気持は後世のインドにも残っているであろう。

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2016年

5月

08日

ヨーガ・スートラ2-37

[2-37] 不盗の戒行に徹したならば、求めずして、あらゆる地方の珠玉が彼のところへあつまる。

Once non-stealing has been permanently established, all riches will be available. ||37||

 

<解説>インドでは珠玉、つまり宝石が財産の代表である。

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2016年

5月

09日

ヨーガ・スートラ2-38

[2-38] 禁欲の戒行に徹したならば、巨大な力が得られる。

Performing each action with an awareness of a higher ideal (brahma-charya) engenders tremendous strength. ||38||   

 

<解説>禁欲の戒行は精力を蓄積することになるから、身心ともに大きな力をもつようになる。かかる巨大な力を得る結果、だれも彼に反抗し得なくなり、またいわゆる達人(siddha)となって(3-32参照)、弟子に自己の思想を以心伝心的に伝えることができる、といわれる。

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2016年

5月

10日

ヨーガ・スートラ2-39

【2-39】 不貪の戒行において不動心を得たならば、自分の転生のありさまを三世にわたって漏れなく知ることができる。

The permanent reign of non-covetousness (aparigraha) engenders knowledge concerning the goal of earthly life. ||39||

 

<解説>仏教で阿羅漢の徳といわれる三明、六通の中の三明(宿明通、天眼通、漏尽通)はここに説くところのシッディ(siddhi、悉地、霊能)と似ている(3-18参照)。人は一般に自分の身体と欲望をみたす対象とに対する貪愛の情のために縛られて、常に心を外向きにはたらかせているから、真実智が顕われてこないのである。からだその他に対する貪愛の心がなくなって、無関心(madhyasthya)の心境つまりストア学派のいうアパテイアの境地に達した時に、初めて正智を得ること得ることができる。

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2016年

5月

11日

ヨーガ・スートラ2-40

【2-40】 清浄の戒行を守る時、人は自己の肉体に対して嫌悪の情を抱くようになり、まして他人の身体に触れたりはしなくなる。

Purity (shaucha) results in the abandonment of physicality and the cessation of physical contact with external things. ||40||  

 

<解説>洗ってもぬぐっても、身体の汚れはとり去りきることができないことを知るからである。

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2016年

5月

12日

ヨーガ・スートラ2-41

【2-41】 清浄の戒行を守るならば、さらに、サットヴァの明浄、愉悦感、一つのことに対する心の専念性、感覚器官の克服、自己直観の能力などがあらわれる。

Also the capacity for clarity, cleanliness, cheerfulness and intentness, as well as mastery over the senses, ultimately give rise to self realization. ||41||

 

<解説>①勧戒の第一である清浄感を守る時にあらわれる結果は、単に肉体嫌悪というような消極的なものばかりではない。サットヴァの明浄(sattva-suddhi)というのは、例のサットヴァのはたらきが他の二つのグナのはたらきに打ち勝って、その本性である照明、幸福などの性向を心の表面にあらわすことである。これはサーンキャ・ヨーガの哲学の立場からの解釈であるが、同じ語は早くウパニシャッド(Chand-Up.VⅡ26.2)の中に現われている。そこでは、この語は単に人間の本質といったほどの意味に使われている。

 

<解説>②ギーター(Gita XⅥ,1;sattva-samsuddhi)にもこれに似た表現があるが、ウパニシャッドの用法に近いようである。愉悦感(saumanasya)とは心がいつも愉しく朗らかで、憂鬱な気持に陥らないことである。一事に対する心の専念性(ekagrya)は、三昧の境地と同じであって、仏教では心一境性などと訳している。感覚器官の克服(indriya-jaya)とは、ともすれば外境へ向かおうとする感覚器官を内部へ引きとめておくことである。自己直観の能力(atma-darsana-yogyatva)とは、真我と覚の二元性に対する弁別智を得るに堪えられる心力をいう。清浄の戒がヨーガでどれほど深い意味をもつものであるかが、この経文によってうかがわれる。

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5月

13日

ヨーガ・スートラ2-42

【2-42】 知足の戒行を守ることによって、無上の幸福が得られる。

An attitude of contentment (santosha) gives rise to unexcelled happiness, mental comfort, joy, and satisfaction. ||42||

 

<解説>この幸福は渇愛すなわち喉のかわきのようにつきることなく湧いてくる本能的欲求を絶滅することから生じるもので、その大きさは天上、地上の幸福の何十倍もあるといわれている。

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5月

14日

ヨーガ・スートラ2-43

【2-43】 苦行を行ずるならば、身心の不浄が消え去るから、身体と緒感官の超自然的能力があらわれる。

Through self discipline (tapas), mental impurities are destroyed and the body and senses take on supernatural powers. ||43||

 

<解説>身体の超自然的能力(siddhi)といえば、おもいのままに身体を小さくしたりする能力、感官の超自然的能力といえば、極微なものやかくされているものが見えるとか、遠隔のものが見えたり聞こえたりするとかいう能力のことである。

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5月

15日

ヨーガ・スートラ2-44

【2-44】 読誦の行に専念するならば、ついには自己の希望する神霊に会うことができる。

Self-study and reflection on yourself (svadhyaya) brings you into contact with the desire ideal. ||44||

 

<解説>①仏教でも神仏の姿を拝しようとして、特定の真言なり、名号なりを唱えることが行われている。不動明王や普賢菩薩を唱えれば、その尊像が見え、その音声が聞こえてくる、といわれる。真言、陀羅尼、名号等は観仏三昧の一方法として用いられる。

 

<解説>②希望する神霊(ista-devata)とは絶対神ではなくて、天とかリシ(神仙)とかシッダとかいわれる有限で人格的な霊的存在である。こういう存在は、その神霊に関する真言(mantra)などを専心に唱えると、やがて行者の眼に見え、耳に聞こえてくる。それはこの神霊がその行人を守護し、指導する役目を引きうけたことのしるしになる。適当なグルの見つからない時、ヨーギーはこの神霊の指導を頼みとするのである。心霊学での指導霊とかいうのに当たるであろう。キリスト教の天使もこのたぐいである。ただし、かかる体験を得ても、それが霊格の高い神霊であるか、また真正の神霊の示現であるかについては充分の用心が必要である(1-28、3-32参照)。

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2016年

5月

16日

ヨーガ・スートラ2-45

【2-45】 自在神への祈念によって、三昧に成功することができる(1-23,24,25,26,27,28参照)。

By accepting your fate (ishvarapranidhana), you achieve self knowledge (samadhi) and supernatural power (siddhi). ||45||

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2016年

5月

16日

ヨーガ・スートラ2-46

[座法]

【2-46】 坐り方は、安定した、快適なものでなければならない。

Practicing yoga with strength and in a relaxed manner gives rise to harmony with the physical body (asana). ||46||

 

<解説>スートラの書かれた時代に、幾種類の坐法(asana)があったがわからない。坐法が体操をも含めて百種ほどにもなったのはハタ・ヨーガの時代である。どんな坐り方にもせよ、安定していることと、快適であることが必須条件なのである。

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5月

17日

ヨーガ・スートラ2-47

【2-47】 安定した、快適な坐り方に成功するには、緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させなければならない。

The key to success in this regard is practice with effort, which becomes progressively easier, combined with deep contemplation (samapatti). ||47||

 

<解説>坐りが安定して貧乏ゆるぎをせず、少しも不快な感じが起こらないようになるには二つの条件が要る。一つは、努力、緊張をゆるめることである。すべて、催眠的現象を起こすには、他力催眠と自己催眠を問わず、くつろぎが大切である。他の一つは、心を無辺なものへ合一させる(anantya-samapatti)ことである。というのは、虚空(akasa)のような無辺なものへ思いを沈潜させて、心がそれと一つになったような状態になることをいう。無辺なものと合一する時には、肉体に関する我想がなくなるから不快感は起こらなくなる。この無辺(anantya=アーナンティア)は仏教の四無色定の中の空無辺処定、識無辺処定と通ずるところがあろう。ちなみに合一(samapatti)とは定のことである。坐りをマスターすれば定、三昧の極致に達することができる。道元禅師が只管打坐を提唱したのも、このような体験から出たのかと思われる。また無辺というのは、インドの神話で、世界開闢以前に、創造の神ヴィシュヌが眠っている時、そのベッドの役目をしたコブラ蛇の名でもある。

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2016年

5月

18日

ヨーガ・スートラ2-48

【2-48】 その時、行者はもはや、寒熱、苦薬、毀誉、褒貶等の対立状況に悩まされることがない。

This results in a victory over the duality of life. ||48||

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5月

18日

ヨーガ・スートラ2-49

〔調気法〕

【2-49】 さて、坐りがととのったところで、調気を行ずる。調気とはあらい呼吸の流れを絶ちきってしまうことである。

Once harmony with the physical body has been achieved, through interruption of the movement engendered by inhaling and exhaling you attempt to harmonize your energy (pranayama). ||49||

 

<解説>調気法(pranayama)を定義して、あらい呼吸の流れを絶ちきることであるというのである。あらい呼吸(svasa-prasvasa)は前に(1-31)手足のふるえなどと並べて、心の散動状態の随伴現象として挙げられている。調気を定義するのに、われわれの通例の呼吸の仕方をやめてしまうという面をとりあげたのは面白い。われわれの日常の呼吸は、短くて、不ぞろいである。ある人の書いたものによると、ヨーロッパ人は通常、1分間に30回の呼吸をなし、かつ長短まことに不均等であるという。この短くて、不ぞろいな呼吸をゆるやかでリズミカルなものにすることが、調気の外部的な特長である。元来プラーナというのは、息のことではなくて、身体の中や大気中にある生命の素である。宇宙的生命エネルギーと解してもよい。呼吸の息がプラーナではなくて呼吸させるものがプラーナなのである。このプラーナは、もとは吸う息の中に含まれて身体の中へ入ってきたものである(1-34参照)。

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2016年

5月

19日

ヨーガ・スートラ2-50

[2-50] 調気は出息と入息とからなり、空間と時間と数とによって測定され、そして長くかつ細い。

Exhalation, inhalation, retention, technique, time and number must be very precisely regulated over a lengthy period. ||50||

 

<解説>①出息、入息、保息という訳語は実は便宜的なものである。原文では、外部へ向かうはたらき(bahya-vrtti)内部へ向かうはたらき(abhyantara-vrtti)停頓するはたらき(stambha-vrtti)を有する、となっている。この三つのはたらきを、ただちに出息(recaka=レーチャカ)、入息(puraka=プーラカ)、保息(kumbhaka=クムバカ)に充てることが妥当であるかどうかは問題である。作者は気息のことをいっているのではなくて、生気のことを言っているのではないかと思われる。

 

<解説>②空間によって測定するというのは、例えば出息の時には、鼻のさきに下げた軽い葉片または綿毛がどれだけの距離で動くかを調べるとか、入息の時には、かかとから頭頂に至る間のどこかで、蟻の這うようなむずがゆさが起こることによって測定するとかすることである。時間によって測定するというのは、クシャナ(ksana)やマートラー(matra)などの時間単位を以て気息の長さを測定して、標準の長さにそろえること。クシャナ(刹那)は瞬きするのに要する時間の四分の一の長さの時間(3-52参照)、マートラーは、まず手のひらで膝小僧を三度さすった後で、拇指と人差し指とでバチッと音を立てるのに要する時間の長さである。数を以て測定するというのは、呼吸の回数を以て気息の上昇(udghata)を測定することをいう。

 

<解説>③例えば、初級の気息の上昇には、三十六呼吸を以てするというようにである。気息の上昇というのは、気(vayu=ヴァーユ)が鼻のつけ根の処から押し上げられて、頭に突きあたることをいう。そのわけは、健康人の一呼吸の時間は一マートラーの長さであるからである。この原文はどうも充分に理解しつくされているとは思えない。註釈家の見解は後世のものであるし、その見解の間に不一致な点がある。調気の法は今日同様、直伝による点が多かったのであろう。調気法は、その後益々発達して、ハタ・ヨーガの中心的な行法となる。

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2016年

5月

20日

ヨーガ・スートラ2-51

[2-51] 第四の調気は、外部及び内部の測定対象を充分に見きわめた後になされる止息である。

The fourth pranayama technique ultimately transcends breath retention after exhaling or inhaling. ||51||

 

<解説>第四というのは、出息、入息、保息に次ぐ調気であることを示す。外部の測定対象とは、出息の際に鼻頭からどれだけの距離にある軽いものが動くか、また入息の際に心臓から臍に至る間のどこに気の動く感じがあるかなどという測定をいう。こういう測定を一切捨て去って、出入の息が止まることをいう。これは第三の保息に似ているが、違うところは、保息の場合にはやはりいろいろな測定基準があるし、また呼吸についての充分な観察の後になされたものでないが、この第四の調気の場合は、それ以前に充分に内外の対象を見きわめた後に息をとめるのである。このように註釈家は説明しているが、果たして原経文の真意を掴んでいるかどうかは疑問である。原文をすなおに読めば、「内外の対象をことごとく捨て去ったのが第四の調気である」ということになる。ハウエル氏は、第四の調気を、深い禅定のうちに自然に行われる深くて微細、息が絶えているかのように見える呼吸のことと解している。ヴィヴェーカーナンダの如きも本経文を理解し得なかったと見えて、全く見当外れな訳をつけている。あるインドのヨーギーによると、調気法を行じていると、いつの間にか呼吸が止まっているという。

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2016年

5月

21日

ヨーガ・スートラ2-52

[2-52] 調気を行ずることによって、心のかがやきを覆いかくしていた煩悩が消え去る。

The veil covering the light of the true self then vanishes. ||52||

 

<解説>心のかがやきというのは心を構成する三徳の中のサットヴァ・グナの性格をさしている。このサットヴァ性においてすぐれている覚は通例無明等の煩悩によって覆いかくされているから、その固有の照明性を発揮することができない。調気の修行を励行することによって、この障蔽が消えるから、心のかがやきがあらわになって、解脱へみちびく弁別智が生ずるのである。

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2016年

5月

22日

ヨーガ・スートラ2-53

[2-53] その外、意がいろいろな凝念に堪えられるようになる。

And the mind develops the capacity for harmony with thoughts (dharana). ||53||

 

<解説>調気の第二の結果を述べている。この経文の内容は1-34に説くところと、主旨において一致する。意(manas=マナス)はインド心理学で根(インドリア)「心理器官」の一つに数えられている。というのは、意は他の十の感覚、運動の器官と結んではたらく場合が多いからである。意の機能は思惟(samkalpa=サンカルパ)であるといわれる。ここで思惟というのは、思考作用と意思作用とを兼ねた心理作用である。注意の作用もまた意に属している。だから凝念(dharana=ダーラナー)をはじめとする心理操作はすべて意のはたらきによってなされている。意と凝念との関係は古くはカタ・ウパニシャッドの中にも出ている(佐保田鶴治『インド正統派哲学思想の始源』創文社384頁以下参照)。凝念については3-1で説明される。

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2016年

5月

23日

ヨーガ・スートラ2-54

〔制感〕

[2-54] 制感とは、諸感覚器官が、それぞれの対境と結びつかなくなって、心の自体の模造品のように見える状態をいう。

Harmony with the emotions (pratyahara) is achieved when the senses cease to be engaged with external objects and thus that which is mutable in human beings (chitta) becomes similar to true nature. ||54||

 

<解説>制感(pratyahara=プラティアーハーラ)の語源的意味は、感官をそれの対境から引きもどす、または感官が対境へ向かって動こうとするのを引き止める、ということである。感官がその対象に結びつこうとする動きを止められて、自分独りの状態にとり残されると、感官はあらゆる心理作用の実体である心の自体の模造品(anukara)のようになる。というのは、あたかも女王蜂の後に蜂の群が従うように、諸感官は心の動きに追随して動くからである。ひらたく言えば、各器官がそれぞれ独立に外界の色、声等の対境と結びつくことを止められて、器官と心のうごきとが一体になっている状態が制感の境地なのである。かように制感の行が成功した場合には、心のはたらきが止滅され、諸感官も従って止滅される、というのがこの経文の狙いどころである。

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2016年

5月

24日

ヨーガ・スートラ2-55

[2-55] 制感の行法を修習してゆくならば、ついには諸感官がに最高の柔順さが生ずる。

Thus do you gain superme mastery of your senses. ||55||

 

<解説>①感官の柔順さ(vasyata)ということは、いろいろな面から考えられる。ある註釈によれば、感官の柔順さとは、感官がたとえ外界の対境の方へふり向けられても、そちらの方へかけよらないことである。また一説では、主観の方に愛着等の煩悩がなくなった結果、声などの対境にふれても一向に快、苦を感じない状態だ、という。特に最高の柔順さという時は、心が専念状態(ekagrata)にある時、感官もまた外部の知覚をうけつけないことを意味している。最後に、心のはたらきが完全に止滅された時、感官のはたらきもまたこれに追随して消滅することになる。

 

<解説>②以上禁戒から始めて制感に至るまでの五部門はヨーガ外的部門(bahir-anga)とよばれる。この五部門は、次第にのぼりの段階をなしていて、禅定三昧の心境を漸次にもりあげてゆくが、しかし未だヨーガの本命をなす部分ではない。ヨーガ行の本命は、これから述べる三つの部門にある。これまでの五部門は外部的条件をととのえる準備段階に過ぎないのである。

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